日記 二つの記憶喪失について(1) など

 日記を書いていく。これまでの人生で幾度となく試みたが失敗してきたことは、日記などの「記録」をつけることの継続、習慣化だ。で、それでも「幾度となく試み」るのは、結局、日記をつけていくことが何か、人間ではない生命形態であろうと人間であろうと、ともかく本質的に重要な営みであるように思えるからだと思う。誰にとって重要かとか、どのように重要かとか、そういったことは(調べればわかるだろうが)わからない。そのような世界の側の事実によってではなく、いわば「予感」としてただ与えられたこの感覚を実感にひらいていくことをやっていきたいのだということは、まあいえると思う。また、そのような方法を取らずして成し遂げられない、自分が何を感じるのかについてのこれ以上ないと感じられるほど素直な洞察の言葉によってのみ救われてきたし、これからもそうだという気がしていて、だからそのような方法をとらずに日記を書くことは到底不可能であると思う。ただ、これはそのように日記を書くための条件であるとともに、ある種の「ゴール」になりうることでもあるが、ここで(日記を書くにあたり)「私は何者か」ということがわかっていなければいけない。冒頭に「人間ではない生命形態であろうと人間であろうと」と(わざとらしく)注意しておいたが、これはその通りで、ともあれ私が何者かがはっきりわかってから「自分は人間か、実は人間ではないか」とか「どちらでもいいが、どっちであるべきか」とか、もちろん「私は人間(または人間以外の何者か)であり、これが私、私は私である」とかもはじめていえるのであって、そもそもそのような、世界に対して(内的に)自己を打ち出すための基となる特定の形がわからなければ、何を言ってもしょうがない、世界に確実に存在するだけの〈他人〉の言葉になってしまう、という問題がある。自己という存在の具体的「形」がわかったあとでは、「どちらでもいいが、どっちであるべきか」などという問いの「べき」性は世界の側から瞬時に決められるということもあり、ひとたび決まってしまえばこの「べき」に従って生きるほうがずいぶん楽であるということは、実は多くの人にいえているのではなかろうか、と思う。話が(微妙に)逸れたが、ともかく、多くの人がどうであるかはともかく、表題の通り、「二つの記憶喪失」について。

 

 記憶喪失というと、僕は前日に書いた日記やスケジュール(行動予定)の内容を毎夜忘れていて、これがもっとも身近な例になると思う。というか、ここまで書いていて既に「二つの記憶喪失」とは何だったか(僕は何を書きたかったか)を忘れてしまっているので、なんでもない、意味なんかなさそうな単なる物忘れ癖の例をひらいて、偶然的に表題に突きあたるのを期待するしかない。で、スケジュールの内容を毎夜忘れるとどうなるかというと、忘れてもたいていホワイトボードにメモしてあるので、それをみて「思い出す」ことになる。そうして「思い出」しても何かを忘れたままだというとき、僕は自分が記憶喪失していることを知る。しかし、そのことをいくら知ったとしても、当の喪失した「記憶」(それが何についてのどのような記憶かはわからないが)はかえってこない。これは一般の記憶喪失の場合にも似ていると思う。よく知らないが、何か事故などによる心的(または器質的、物理的)ショックによって記憶を失ったとされる場合、当人は「失っている」ということは知らず、その状態は他者によって発見されるしかない。(ところで、たとえば「最愛の人」が「見知らぬ他人」にみえたとき、その最愛の人が「私はあなたの『最愛の人』だ」と情緒的に訴えるとき、当人が「最愛の人」というステータスのみを知っているという場合とは別に、それすらも(つまり、最愛の人というのが一般に何であるのかすら)わからない場合というのもまた、存在するのだろうか?)僕は何を忘れるのか。睡眠状態をまたいで連続しない(が、連続していないと(状況的にも実感的にも)わかる)ものは何なのか。これが知りたいと思う。実は、おそらく、このとき僕が何を忘れているか(というより、何を忘れていることが(常に)必要か)を考えること自体はかえって簡単なのだと思う。本来至極簡単であることをやや複雑に(しかしわかりうる程度には簡単に)知りたいのだと思う。そうしなければ、ある種のその簡単さに引き込まれて、自分が消えてしまうのではないか。簡単すぎて、人間というまとまりではなくなってしまうのではないか。だから、そのような問いに踏み込む前にぜひとも踏み込んでいる自分が誰なのか判明させたいのでは。そうなのか。もしそうだとしたら、それはどういうことなのだろう。だって、現にこの人(この人が僕である)は「人間」ではないか。人間は、現実をみるべきだ。どうもこれ(「人間は現実をみるべきだ」)は「言えてる」ように聞こえる。そう、「べき」だ。では、僕は本当に人間なのか?どのような人間なのか?どの程度までなら人間であることが可能なのか?たとえば空き家に住んでいるある独りの野良猫がすべての人間よりもすべての点において超越的に優れていたとして、それって「何」だ?毎朝、ホワイトボード(に書かれたスケジュール)が、まずはじめに僕の世界だった。僕は僕を内側から生きられていない。しかし、内側から生きる僕は内側から生きられる(られている)僕ではない、ように感じる。車椅子は自分ではない。それと同じように、自分が自分ではないということがありうるのか。今、そうあってしまっている。ともあれ自由に手足を動かすことができるが、そのように自由に動かすことができている世界(であり僕)が丸ごと誰か(他のひと)であるような気もするということと、そもそも、別種の自由の不在によって、自由に動かすことができているという事実の成立する世界が、また別の(自由な?)意思によって歪められているということが、混同されているのでは。色々なことに気づくけども、結局、何に気づいたのかがわからない。ぐちゃぐちゃで、自分が何者であるか、わからない。これがわからないことには、日記も書き続けられない。今日はこの辺で終わる。